こんにちわ。心彩さろんの麻祈(maki)です。
今日は「白山神社」についてです。
以前の「美具久留御魂神社」で菊理媛は、実は語呂合わせなんじゃないかと思ってしまいました。それからよく分からなくなってきたので、ここは振り出しに戻って 近所の「白山神社」から始めたいと思います。
まず「白山神社」とは、石川県の「白山比咩(しらやまひめ)神社」が総本社となる神社です。そこの調べによると、「白山神社」は、全国に2713社鎮座しているといわれています。
大阪市城東区の白山神社
「菊理媛神」は謎多き神と知られていて、古事記に名前が無く、日本書紀では一行だけ記載があるのみです。登場の仕方が唐突で、気が付いたらいなくなっている神様です。
そんな「菊理媛神」が祀られている「白山比咩神社」には、幾つも伝説が残っています。
その1つが白山を開山した泰澄(たいちょう)の話です。
今からおよそ1300年前。
泰澄は、白山麗の舟岡山にある「妙法の窟」にこもって修行していると、白い馬に乗った「白山比咩大神」が現れ、「私は白山に住んでいる女神です。私の本当の姿を見たいなら、白山の頂上でおいでなさい」と告げられました。
泰澄は、それまで誰も登ったことがなかった白山に登り、頂上付近の「転法輪の窟」で行を重ねました。
そこへ翠ヶ丘のほとりから九つの頭を持った竜がおどり出してきました。
泰澄が「このような恐ろしい竜が白山の神様の本当の姿とは思えない。これは仮の姿だ。真のお姿をお見せください」と念じると竜は十一面観音菩薩に姿を変えました。
泰澄は「これぞまことの白山の神様のお姿に違いない」と言って拝まれました。
その後「十一面観音菩薩」を木造に刻み、白山の頂上に祀ったということです。
※「白山比咩神社」の「白山伝説」より伐異。
というわけで、「菊理媛神」の本当のお姿は「十一面観音菩薩」でした。
頭に11の仏面があり、四方だけではなく十方を見つめてすべての人を救うという意味があると言われています。
でもなぜ本当のお姿ではなく仮のお姿になっているのか、その真相は歴史とともに紐解いていく必要がありそうです。
古代
あらゆる物に神が宿るとし、特に大きな木、巨大な岩、山などには神さまが降りられる場所と考えられてきた。
奈良時代
「律令神祇制度」が完成。
「鎮守の森」と言われる神社が人々が集う場所だった為、朝廷はその神社を組織化をする事し、人々を掌握した。
それにより国家神と認められた神社は「官社」となる。
仏教が中国から入る。
仏教寺院を「神宮寺」として神仏を同格に扱った。(神仏習合)
平安時代
「神仏習合」文化が栄える。
神が主で仏が従が基。のちに僧侶が支配的となって立場は逆転した。「仏」を守るために寺院の境内に「鎮守の神」が祀られるようになる。
それまでの神社は土地の氏神を信仰をしてきたが、中期頃は信仰の強い神を一定の地域を越え祀る様になる。
勧請(遠方の神社に祀られている神様を地元地域などにに迎えて奉ること。)が盛んになる。
鎌倉時代~室町時代
鎌倉幕府の基本法「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)により、幕府は神仏を保護する。武士が政治を動かす時代であった。
南北朝以降は国家の統一力が弱くなり、社寺を保護する力が弱まる。
一般市民の神社信仰が強まる(伊勢講、熊野講、白山講など)。
安土桃山時代
兵火によって各地の社寺が荒廃。織田信長や豊臣秀吉は、造営費を寄進し、窮乏した神社を保護した。しかし政治に干渉してくる社寺は容赦なく弾圧した。
江戸時代
仏教の力が益々強くなる。徳川幕府は国家政策としてそれぞれの地域に寺を建立。国家の組織化をより強くした。官社はより仏教色の強い神社となり、神仏習合が益々強くなる。
一方、鎮守の森で祀られる氏神様は、大衆信仰として地域に根ざし、村人の集合の場所として益々盛んになる。
明治時代
神武天皇が国家を統一。
明治維新を築く際、天皇家の崇高する信仰が神道の為、それまでの仏教色を改める。
その為「廃仏毀釈」が起こり、仏教文化の破壊活動が行われる。それが「神仏分離令」となり、神社とお寺が明確に分かれる現代の形となる。
歴史に目を通してみると、神社仏閣は政治や宗教弾圧など様々な考え方の影響を受けている事がわかります。
白山は、古くから霊山信仰の聖地として仰がれ、麓に暮らす人々や平野に住むの人々にとっての聖域であり、生活に不可欠な“命の水”供給してくれる神として崇められてきました。
やがて山への信仰が登拝となり、山頂に至る登山道が開かれ、霊峰白山を御神体とする全国白山神社の総本宮として知られるようになります。
《弥生時代》
崇神天皇が本宮の北にある標高178mの舟岡山に「まつりの庭」として「白山比咩神社」の社殿を創建したのが始まり。※「鎮守の森」と言われる場所のことだと思います。
《奈良時代》
白山に始めて登拝した僧泰澄は、山頂に奥宮を建立し「十一面観音菩薩」を祀る。
その後、白山登拝の三馬場(加賀・越前・美濃※)が開かれる。※霊峰白山の山頂までに至る山道・禅定道の三つの起点。
《平安時代》
神殿仏閣が造立され、鎮護国家の道場と定められる。
白山本宮が比叡山延暦寺の末寺となる。
《明治時代》
「白山比咩神社」を本社とし、白山山頂の宮を奥宮と定める。
※以下省略
東成区の「白山神社」のご由緒書きでは、応永元年(室町時代)に「中浜」「鴫野」の氏神であったことが明記されています。
そして古くは「白山妙理権現※1」と称えていたことから、もとは「十一面観音菩薩」だったことが分かります。(※1白山妙理権現は、白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。十一面観音菩薩を本地仏とする。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。 )
“すべての人の仲を守り、給う、和の守護神であり、また水の大元の神として崇敬されている”
この文面から「白山比咩神社」そのものという事がわかります。となると勧請が盛んだった平安時代にはもう祀られていたかもしれません。
その頃「白山比咩神社」には「十一面観音菩薩」が祀られていましたが、「白山神社」には「十一面観音菩薩」ではなく「白山妙理権現」が祀られていたのは、「神仏習合」思考が盛んだった為でしょうか。
そして明治には権現号※2を廃止して「白山神社」と改称されていることから、現状の「菊理媛神」を祀る神社になったと思われます。※2仏・菩薩が衆生を救済するために仮の姿で現れること。
となると、やはり「菊理媛神」という名前が唐突だと思います。
「白山比咩神社」の伝説で「菊仙女」という女性の話もあるので、そちらもご紹介します。
泰澄が白山山頂付近に到達た頃、菊しか食べない女性で村人から「菊仙女」と言われる女性の家を通りかかりました。
泰澄は弟子に行くよう薦められましたが行きませんでした。ある日「菊仙女」が村人に「私はこれから旅に出ます。お世話になったのでお礼に菊を植えていきます。その菊を薬として使ってください」と言い残して姿を消しました。
試しに病人にその菊を食べさせると、病は治ったそうです。
村人達は「ありがたい仙女様だ」と菊のそばにお宮をたてました。
それから何百年も経ち「知覚坊」というお坊さんが金儲けの為にお宮をお宮を白山の末社にしました。まもなく菊はすべて枯れてしまい、お宮もつぶれてしまいました。
今ではどこにお宮があったか分からないということです。
この女性の「菊」を取って神様の名前に宛がったのでは?
その理由は、明治の「神仏分離令」。
「十一面観音菩薩」を分離させなければならなくなったのではないでしょうか。
「白山比咩神社」は奥宮に仏として「十一面観音菩薩」を祀り、本殿には神としての新しい神格が必要になったと考えます。
その為の名前は、伝説の「菊仙女」から「菊」を取り、そこに”物事のすじめを立てる、とりさばく。おさめる。おさまる。“という意味の「理」を宛がうことで、「菊理媛神」という新しい神格を作ったと思うのです。
なんか、筋が通ってきた!!
写真にも光の筋が写りましたし、きっとこれは「ここをしっかりと見なさい」という神様からのお告げだと思います。
今回は随分長くなりましたが、お付き合いくださいましてありがとうございます。
で、この話はまだまだ続きますので宜しくお願いします(笑)
では、今日はこのへんで終了です。
ではまた。
読んでくれてありがとう!